医学・医療の歴史
ヒッポクラテスの時代から、人類にとって重要な問題だった「医」について語ろう。
世界史というには微妙だけど、錬金術師・魔術師として名高いパラケルススは
実はかなり名の知れた医者で、反骨反権力の気骨の士だったらしいな。
彼が書いたとされる魔術書はほとんど全部偽書なんだけど、奇人だったのは事実。
中世の、ひどい迷信にとらわれた医学のなかに、開明的な医療法を導入しようとしたらしい。
>19
エラスムスを治療して「私は貴方の技術に値するだけの報酬を支払えるほど豊かではありません。」と絶賛されていました。
フッガー家のインチキ水銀・香木療法(対梅毒)を批判し、更に同僚も批判して教授職を追われていましたが、腕は(非中世欧州的というか)確かでした。
なお表現が難しいのですが、パラケルススは物に宿る「魔術的性質」自体は信じ、それを医療に応用しようとしていました。
ルネサンス時代になって、ヴェサリウスだのアンブロワーズ・パレだのが出てくる。
ヴェサリウス(Andreas Vesalius)とは
アンドレアス・ヴェサリウス(1514年-1564年)はベルギー出身の解剖学者、医師。
人体解剖で最も影響力のある本「ファブリカ」こと「De humani corporis fabrica(人体の構造)」の著者。ヴェサリウスは現代人体解剖の創始者といわれる。過去にベルギーの5000フラン紙幣に肖像が使用されていた。
アンブロワーズ・パレ(Ambroise Paré)とは
アンブロワーズ・パレ(1510年-1590年)はフランスの王室公式外科医。
近代外科の発展において重要な功績を残した人物。整骨術に関する著書はオランダ語訳を経て華岡青洲の手に渡り、日本の外科医療に多大な影響を与えた。医学史家から「優しい外科医」と評され、自身も「我包帯す、神、癒し賜う」 (Je le pansai, Dieu le guérit.) という言葉を残している。
中国における西洋医学の流入について。
康熙帝は中医よりも西洋医を信頼してたんだって。
>>5
中国では漢代に、『黄帝内経』や『傷寒論』など中国医学の理論の基礎となっている
医学書が完成したけど、その後の発展はどうなっているんだろ。
>>32さん
中国の医学書は結構失われてしまって、現在は残っていないものも多いですね。
十世紀に、日本の丹波康頼と言う医者が、中国の医学書200冊ほどをまとめて
「医心方」という医学書を編纂したのですが、ここに引用されている医学書の多くは失われています。
逆にいえば「医心方」が残っているおかげで、隋唐期の漢方医学を知る事ができるわけです。
医学書が失われた所為かどうかはわかりませんが、
病気によっては治療法が退化してしまった例もありますね。
例えば、脚気の治療法ですが、晋の時代には小豆の粥を食べさせるというものだったのですが、
時代が下ると、この治療法は忘れ去られてしまいます。
関係ない話ですが、丹波哲郎は丹波康頼の直系の子孫です。
なんか丹波哲郎の祖先だと聞いただけで
その康頼という医者も信用できなくなるなあ
祖先は電波じゃなかったんだろうか
>34
「今昔物語集」では阿倍晴明らと共に藤原道長に送られて来た瓜の中の毒気を除去した名医です。
史実でも重用されていましたし、そんな医師でも無いと「医心方」なんて書けません。
しかし日本の医学書は秘伝を世間に公開する為に鎌倉時代に書かれた「頓医抄」(50巻)といいやたら長いのが多い。
>>34
丹波哲郎の祖父はどっかの薬科大の学長だった筈。
ここで日本・中国等の東洋医学もありですよね?
もちろん!
東洋医学というとインド医学も話題が豊富ですな。
アーユルヴェーダだけにとどまらず。
近代ヨーロッパにおける精神病院の改革なんかもおもしろそう。
フランスのサルペトリエール総合施療院で精神障害者の人権を守ろうとしたピネル医師とか。
>>7
精神医学史のうえでは、「ピネルの解放」をもって
近代精神医学がはじまるとされているほど彼は重要です

サルペトリエールを訪れたピネルが、患者を鎖から解放しているところです。
ttp://web.sc.itc.keio.ac.jp/anatomy/kokikawa/seisin/seisin47.html
精神病者も人間として処遇されるべきである、との考えをピネルはイギリスのフェリアJ. Ferriarから学んだと述べており、
現代から見れば多くの限界が認められるにせよ、彼の実践上の方針は当時としてはきわめて新しいものであった。
盲目的に多くの薬を使うことに反対し、患者の衛生、食事、病院内管理、職員の態度、
信頼にみちた温い雰囲気の大切なことを強調したのである。
学問上のしごとは下記の著書にまとめられ、諸外国語に訳された。英国の精神医たち、
とくにカレンW. Cullenの影響をつよくうけ、理論的体系づくりよりも患者を細かく順序立てて観察し、
記述することを重要視した。これはその後フランスの精神医学の伝統の一つとなっている。
ピネルは疾病分類をもこころみているが、それは次の通り、かなり雑然としている。
疾患の第4網が精神疾患(nevroses)とされ、これが次の5類に分けられている。
(1)感覚のnevroses(以下n.と略す)、(2)脳機能のn.(1.昏睡 2.ヴェザニー[ヒポコンドリー、メランコリー、マニー、痴呆、夢遊、
恐水病など])、(3)運動と発声のn., (4)摂食機能のn., (5)生殖機能のn.。
ピネルは器質論的先入観を持つことをあくまでも排したから、彼の精神医学は心理学から出発したものといえ、
この二つの学問の密接なつながりはその後フランスの伝統の一つとなった。
ピネルの歴史的意味は何と言っても「精神病者の解放」の象徴となったことだが、
この解放事業はその後彼の弟子たちや諸外国で多くの努力が試みられてきたにもかかわらず今なお完成していない。
自分が読んだ中で参考になる本があったんで紹介。
絵とき精神医学の歴史
ジェラール・マッセ、アラン・ジャッカル、ミシェル・シアルディ 著
http://www.seiwa-pb.co.jp/search/bo05/bn432.html
フランスの医者の卵向けの絵本なんだが、分かりやすい上面白い。
ピタゴラスの昔から現代の医療制度改革に至るフランスの精神医療史が書いてある。
クロルプロマジン発見以前はホントに恐ろしい代物だったんですね、精神医学はw。
そんな中でどうやって手探りで発達してきたのか勉強になります。
あとフランスの精神医療がどれだけ進んでいるのか知るのにも参考になるかと。
パリなどの病院をみると窓に鉄格子が入っている。
つまり病院というのは治す所でなくて、伝染病などの病人を
閉じ込めておく所だったようだ。島によく作ったみたい。
ナイチンゲールの伝記によると、「病院」という施設の
元型を作り上げたのは彼女ひとりの独創であったらしい。
赤十字のデュナンもナイチンゲールの強い影響を受けてるし、
現代医療に対する彼女の歴史的功績は計り知れないものがある。
ナイチンゲールって言えば、デュナンの国際赤十字設立の構想に難色を示して
各国各々がそれぞれでやるべきだって主張したんだっけ。
・・そんだけだけど。
ナイチンゲールと赤十字活動
ナイチンゲールは赤十字社活動には関わっておらず、むしろボランティアによる救護団体の常時組織の設立には真っ向から反対していた。これはマザー・テレサと同様、「構成員の自己犠牲のみに頼る援助活動は決して長続きしない」ということを見抜いていたためである。この考えは「犠牲なき献身こそ真の奉仕」という有名な言葉にも表れている。そして「構成員の奉仕の精神にも頼るが、経済的援助なしにはそれも無力である」という考え方があったからだといわれている。
ナイチンゲールて長生きだよねえ
>12
そのわりには毎日「自分は死ぬのではないか」と怯えていたそうです。
ナイチンゲールの晩年
ナイチンゲールは37歳の時に心臓発作で倒れ、その後は亡くなるまでの約50年間をほとんどベッドの上で過ごし、本の原稿や手紙を書くことが活動の柱となった。90歳の時、バーンレーンの自宅で静かに息を引き取った。
>>10
クリミア戦争では、兵士の病死が多かったからねえ。
実際の戦闘より、伝染病(チフスやコレラなど)の死亡者のほうが多かったとか。
日露戦争では脚気論争があったし。
森林太郎(森鴎外)が高木の説を認めなかったので患者の数が増えた。
>ナイチンゲール
患者死亡率を40~60%から2.2%にまで下げたしね。
ナースシューズも彼女の発案。
看護婦として働いたのは6年くらいだけど、その後の実力者ぶりも凄い。
東洋では、「看護婦」という職業は無かったんですよね。
テレビの時代劇に出てくる江戸時代の病院風景は正確なのかな?
江戸時代の病院に看護婦とかはいたんですか?
>>454
安藤優一郎『江戸の養生所』 PHP新書、よると、
養生所は不衛生で、賄賂が飛び交っていた施設だったらしい。
それと、「看護婦」という専門職はないけれど、看病人の中には女性もいたのではないか。
>>17
西洋でもナイチンゲール以前は「看護婦」はいなかったも同然。
アル中や売れなくなった売春婦がつく職業。
日本で看護婦の必要性を強く説いたのが、アメリカで看護学を学んだ大川捨松。
>>22
>>15にもありましたけど、もしナイチンゲールがいなかったら、今の医療制度・体制そのものが存在していないんですね…。
すごい女性。
ナイチンゲール以前は看護婦なんて医師の娼婦扱いだったしな。
彼女は医療制度だけでなく、女性の社会的地位の向上にも貢献した。
良スレでござる。
ナイチンゲールはたしか、かなりいいとこ出のお嬢さんでしょ?
彼女の行動力の根源が知りたい。よもや陽明学派だったわけじゃあるまいw
>>82
ナイティンゲールの母親の口癖は「女としての務めを果たしなさい」
「世間様の期待を裏切らないように」。
彼女に大きな影響を与えたのは、パリのサロン。
ここで女が男と対等な友人と扱われている世界を知る。
フェミニストとしての情熱の面が濃い、と
ttp://www.ffortune.net/social/people/seiyo-mod/nightingale.htm
フローレンス・ナイチンゲールは一般にはクリミア戦争で敵味方の区別なく
怪我人を看護した博愛の看護婦、というイメージを持っている人が多いのですが、
実際の彼女はそれとはかなり隔たったものです。
まず彼女は「神の声を聞いた人」です。彼女は生涯に4回(1837,1851,1854,1861)
神の声を聞いており、クリミアに赴いたのは、神の命に従って奉仕をするためでした。
そんな中運命の1837年2月7日。フローレンスは神の声を聞きます。神は彼女にこう言いました。
『私の所に来て奉仕しなさい』しかしその時彼女にはどうすれば神様に奉仕することができるのか分かりませんでした。
彼女がその解答を見つけたのは7年後の1844年、24歳の時でした。
彼女は修道女のように病院で病気やけがの人の世話をしたいと言い出します。
そして翌年、従兄のヘンリー・ニコルソンの求婚を断って近所のサリスベリの町の病院に入って
仕事をしながら看護の勉強を始めました。
1847年からはローマの保養所に移り、ここでその所長のシドニー・ハーバートと出会います。
彼女はその後1849年にはエジプトに行ったあと1850年から1851年にかけて
2回ドイツの看護学校に行って、はじめてシステマティックな看護理論を学びます。
そして1851年「他人の評価を気にせず神に奉仕しなさい」という
2度目の神の声を聞いて、貧しい人・病む人たちへの手を更にさしのべていきます。
そして1854年。イギリスはクリミア戦争に出兵します。
この時、シドニー・ハーバートが軍務大臣になっていました。
戦場で多くの兵士が満足な手当も受けられないまま死んでいっていました。
(ほんの50年くらい前まではどこの戦争でも一般に戦死者より戦病死者の方が多かった)。
シドニーは彼女にこの戦争の戦病者・戦傷者の看護を依頼します。
フローレンスはただちに38名のボランティアの女性を組織して、戦地に向かいました。
34歳でした。
現地に行ってみるとそれはひどいものでした。
彼女らのチームは野戦病院の衛生環境を強引に改善し、死亡率を数パーセント下げてみせました。
この時彼女はチームのやり方を軍の首脳部に納得させるために彼女が発明した統計グラフを使用しました。
これは当時としては非常に独創的なものでした。
単なる数字ではなく視覚に訴えるものの説得力は強く、彼女の考案したグラフの様式は今でも使われています。
彼女はこの手法の考案者として後に英国統計学会の会員になり、米国統計学会の名誉会員にもなっています。
このクリミアで彼女は3度目の神の声を聞きました。
帰国後彼女は状況をビクトリア女王に報告した上で、今後の軍役における衛生管理についても助言をしました。
しかしこのクリミア戦争ではさすがに激務がたたって彼女はかなり体を壊し、後々までそれが響くことになります。
中世ヨーロッパの医療は凄いYO!!
負傷し足が膿んでいたら医者登場!
「死ぬのと足が一本なくなるのとどちらが良いか?」
・・・そりゃあ、命落とすよりは足落とすほうがええな。
そう言うや医師は、斧で膿んだ足をバァーッ!!
血も髄液も飛び散る中、哀れ負傷者はショック死・・・
というとんでもない記録を、十字軍時代のイスラム人がガクガクブルブルしながら残してます。
しかも、下々の兵のみならず、時に大物もこのキティな治療で逝かれています。
かの獅子心王を捕虜にしたオーストリアのレオポルト
近くにまともな医者がいなかったので、やむを得ずヤブな医師に頼んだため・・・!!
外科手術で無くても瀉血と浣腸ばかりやられていたら具合も悪くなりますわな。
そういえば、19世紀のイギリスで流行っている外科医の見分け方として、
外科医が掛けているエプロンを見ろってのがあった。
エプロンが患者の返り血で汚れているほど腕がイイ!(患者が来ている)
...19世紀に生まれないでヨカッタ。
>>47
「消毒」の概念が無かったとか…。
不思議なことに、手術用キャップや手袋も外科医より先に補佐である看護婦が先。
確かに良いラテックスの手袋がないと繊細な手術はできないだろうが、
それでも病原細菌の存在が知られていなかった時代でもあるまいに。
細菌の発見が相次いだのは19世紀の後半に入ってでしたから・・・。
消毒といえばノストラダムスが日光消毒をやっていたような。
>>50
黒死病の流行時にやってますね。
他にも死体や患者が身に着けていたものを焼いたり、ネズミを退治したりしてますね。
そう言えば、ゼンメルヴァイスという医師は、
「産婆が取り上げた妊婦の方が、医者や医学生が取り上げた妊婦よりも産褥熱で死ぬ数が少ない」ということから、
「手術などで汚れた手で処置するのが原因だろうから、お産に立ち会う前には必ず消毒せよ」と主張し死者を大幅に減らしたそうですね。
もっとも、同僚たちから「死亡率が下がったのはたまたまだ。俺達を汚い者呼ばわりして中傷する気か」といった感じで罵倒され、
病院から追放されて精神病院で悲惨な最後を迎えたそうですが。
(今では、「消毒法の先駆者」「母親の救助者」と讃えられているそうですね。)
>51
たしかオーストリアでしたか。「医療倫理」の講義で真っ先に紹介されました。
>52
病院はウィーンですが、ゼンメルヴァイス自身はハンガリー人だったと思います。
(1818~1865)ということなんで、国としては一つですが…。
消毒の基本、昔は焼き鏝を当てること。
このために大火傷してかえって悪化することが多々あったという。
よく時代劇なんかで焼酎を傷口に吹きかけて洗うってありますけどこれってなにげにアルコール消毒ってことですよね。
ホントにあったのかな。他の国ではどうしてたのかも疑問。
意外に思うかも知れないが焼酎で傷口を洗う(口に含んで吹き付けたかどうかはともかく)
というのは昔の日本において実際に行われていたことであり、のみならず、
(1)それは遅くとも江戸時代後半においては金瘡に対する標準的な治療法であった。
(2)しかもその目的は消毒(破傷風にならないため)であることが意識されていた。
(3)それどころか、外傷に対してむやみに消毒して患者に苦痛を与え、傷口の細胞を痛める
よりも洗浄だけの方が良いのではないか、という現代医学の知見に迫る見解すら存在した。
例えば、平野重誠(1790~1867)は「病家須知」において次のように言っている。
「また金瘡を洗に、むかしより火酒を用ることなれども、洗ときに、激痛堪えがたきのみならず、
暑月は、膿みやすくして大に可からず、それよりも石灰を水に攪て、
その澄清を以て洗かたが、血の止ことも速にして、痛も少く、且癒ことも早し、(中略)
俗人は、金瘡を水にて洗といはば、必訝ていはん、洗ところの水が、創口より入りて、
破傷風にならんかと、これ決してなき理なれども(以下略)」
焼酎による殺菌能力がどの程度のものなのかはわからないが、ともあれアラビア医学(?)
以後十九世紀半ばまで消毒の概念は忘れられていたのだから、これは驚くべき事だろう。
アルコールで消毒することは昔からあったの?
酒だめなら、イスラム圏は消毒どしてたの?
別に消毒=酒じゃないだろ。
>>182
アルコールの蒸留って8世紀にアラブ人が発明したんだろ。
>>182
飲酒はダメだが、消毒剤としてのアルコール自体を禁じたわけじゃない。
傷をアルコール消毒、という発想は昔からあったよ。
ヒポクラテスも「傷は温めたワインで洗う」という治療法を書き残しているし、
アヴィケンナは「アルコールはイスラムの教えに反する」という批判に対して、
「外傷(と鬱病)の治療に薬として使うのは問題無い」と反論しているし。
(鬱病のほうは「飲む」わけだが、外傷のほうは外用薬に使ったんだろう)
ただ「外科手術の傷口を消毒する」という発想は、どうだったのかな。
中世イタリアの医学校では「手術後は傷をワインで洗うと化膿しない」と
言っていたらしいし、日本では南北朝時代の金創(外科)医が「刀傷は焼酎で洗う」
という治療法を知っていた(室町時代にはこれを出産時にも応用して、日本では
産褥熱の予防はほぼ成功していた)らしいけど。
>>433
少なくとも「外科手術時の感染症予防」という点では、日本は世界最先端を走っていた時期があったようだよ。
たとえば乳癌。体の中心に近いので、リスターが防腐法を開発するまでヨーロッパでは手術など考えられなかった
(無理に手術しても、患者は感染症で必ず死んでしまったらしい)。
それを華岡青洲は難無く手術を成功させてるからね。例の焼酎消毒で。
>>434
消毒に使える薬草というと、何だろう?
ドクダミは排膿に使えるから、そういう類かな。
薬草だとオオバコ、セイヨウノコギリソウ、カミツレ、ニワトコ、ニレ、ニガハッカ、ヨモギ、オランダガラシ、ニンニク、セイヨウワサビ、タイム、カバ、ハコベ、コケモモ、ミント等。
アルコール以外だとハーブ系かな?
ハーブを使うのは確かドルイドが上手かったようだけどキリスト教徒が魔女狩しまくったせいでその知識があるドルイドや魔女がいなくなりさらに鼠を食べる猫も殺したせいでペストが流行り壊滅しかけたような…
>>434
魔女狩り->猫減少->ネズミ増加->ペスト流行は無理
ペストの流行は中世から
魔女狩りの流行は近世から
>>438
そういや、ペスト禍を免れたポーランドには
ぬこタン大好き王様がいらしゃいましたね。
西洋医学って、古代よりの薬草治療その他のテクを、
魔女狩りで排除して退化したんじゃなかったっけか。
>西洋医学って、古代よりの薬草治療その他のテクを、
>魔女狩りで排除して退化したんじゃなかったっけか。
退化するわけないだろw
中には間違って有用テクも排除したのもあるかもしれんが結局は進歩してるって。
近代科学が確立してからはもう確実に。
役に立つものと、インチキの峻別が厳密になっただけ。
ゴリラは病気のときは薬草を食う
研究者がゴリラの後をつけてゴリラと同じものを食べてたら
病気のときに特別に食うにがい葉っぱに気付いたらしい
よく考えると19世紀初めまでの西洋医学の優位って理由わからない。
まだ病原菌が発見されてないから、消毒の概念も、化学療法もないんでしょ?
なら解剖学の正確な知識と種痘だけじゃ?
なんかたいしたこと無い割に過大評価な気もするんだけど。
西洋の牛種痘より先に、中国では人種痘を行ったな。
小規模な物を除き外科手術が,
まあ一般化したのは抗生剤の普及以降の話だと思う。
一般にイメージされる外科手術というと
開頭だったり開胸だったり開腹だったりと大手術な訳だが,
(現在に至るもそうだが)術後管理が成功率を大きく左右する。
術後管理は感染コントロールが死命を制するといっても過言ではない。
これには抗生剤が絶対不可欠。
この例だけではなく,現在の西洋医学の圧倒的な優位の背後には
化学療法(抗生物質を使った治療はこれに属する)の発達が何と言っても大きい。
衛生・公衆衛生を除けば,化学療法は医学が人類にもたらした
最大の恩恵であると言って過言ではない。(ソース無いけど)
では何故「化学」療法なのか?
それは「正しく天才中の天才」と呼ばれたP.Ehrlichが,そう名付け
世界初の化学療法剤を開発したからなのだろう。
麻酔も消毒法も細菌の知識も炎症を抑える方法も
知られてなかった時代からそうだったからこそ恐ろしかったんだよ。
昔の西洋医学は。
現在の西洋医学はアレキサンダーさまさまってとこだな
いわゆる「エーテル・デイ」笑気ガスによる麻酔薬の発見が大きいと思う。
これで誰でも簡単に麻酔ができるようになり外科手術が飛躍的に発展した。
外科手術での麻酔の必要性は以前から重要な問題として指摘されていて
しかも笑気ガスの存在や効能は以前から広く知られていた
しかし数十年の間誰もこれを麻酔に利用できるとは思わなかったのは非常に面白い。
ニコライアや北里柴三郎が破傷風菌を確認する以前は、
破傷風ってどう考えられてたのか知りたいんだけど、なかなか資料がない。
どなたかいい資料あれば教えてください。
痙攣など見て、何かの災いとか思ってたんだろうか。
18~19世紀頃なら、ある程度原因は絞り込まれてたのかな。
怪我や動物に噛まれた傷が原因なのかなーとか。
手塚治虫の「火の鳥」の黎明篇読んでたら
破傷風を「くされ病」と呼んで、アオカビ使って
ペニシリン治療する医者が出てきた。
女王卑弥呼の時代に。
餅の青カビを利用した治療法は確かにあったそうだが。
ヨーロッパ人が植民地にどんどん出ていくようになってから、
その土地の風土病に悩まされたらしい。
アメリカ大陸からもたらされた梅毒は有名だけど、そのほかにもマラリア、
コレラ、黄熱病など、未知の病気がいっぱいあった。
その逆のパターンモナー。
旧大陸から新大陸にもたらされた疫病でも死者多発。
発症のはじまりって、天然痘は古代から、ペストは中世、コレラは近世…で、良かったんでしたっけ。
>>42
コレラはインド・ベンガル地方の風土病です。
イギリスによるインド支配が本格化した17世紀以降は、近隣諸国でもコレラの局地的な流行が発生していました。
しかし19世紀初頭に、この病気は全世界的な流行を見せ、インド、中近東、
ヨーロッパはもとより、日本やアメリカ大陸でも発生します。
例えば1832年のフランスでは9万人が犠牲になり、ペリエ首相やラマルク将軍も亡くなっています。
>>44
ありがとうございます。
インドの風土病だったんですか…最近、海外旅行で罹患する人多いとか。
石器時代の頭蓋骨に、小さな穴があいているものがある。
これはテンカン手術の跡らしい。
石器時代?
メソアメリカの石器文明でなくて?
インカかアステカで脳外科手術が行われてたと言うが、
本当のところはどうなんだろうか?
治療?まじない?
>>28
当時の主力武器であった鈍器で叩かれた脳内出血を治療するための手術。
頭蓋骨に穴を開けて中に溜まった血液を排出する。
>>28
そういえばマラリアの特効薬であるキニーネはキナから抽出されるが、
このキナの原産地は南米のアンデス山脈。
古くからインカ人が熱病の薬として使用していた。
外科手術については、人類は数万年前からやっている。
意外と多いのが、頭蓋骨の穿孔手術。頭痛などに対して行う。
アフリカの民間術者から5回くらい頭蓋骨穿孔手術を受けている人もいる。
もちろん、命に危険は「あんまり」ない。
熱帯地方などでは、頭蓋骨穿孔は、石器のドリルで穴をあける場所にそって、
小さい穴を並べてあけて、で、ぱこっとはずす。
治療後(たとえば、脳内の虫を取り出すなど)、椰子の実の一部で穴埋めをつくって、それをはめて、その後ふさぐ。
椰子の実には殺菌作用があるので、そのままいれたままで治癒するらしい。
帝王切開は、これまた近代化以前のアフリカではかなりふつうで、
成功率もかなり高い。酒で、酩酊状態にした妊婦の腹を割き、
子供を取り出してから、ちゃんと処置して、母子ともに健康っていう例がある。
後期旧石器時代以降だと、結構こういうことをやっているようなので、近代医学以前から、
人間は治療という点ではかなりのことをやっているのは間違いない。
開拓時代のアメリカの白人は黒人奴隷の伝統療法にけっこう助けられたんだってね~。
ネイティブ・アメリカンの伝統療法も馬鹿にできないと思われ。
最近サプリメントとしても見かけるエキナセアは
彼らが蛇など動物に噛まれたときの特効薬にしていたんだけど、
近年の研究では抗生物質的役割が大いにあるとか。
健康な細胞壁と病原菌におかされた細胞壁との
境目を壊してしまう酵素の発生・発達を阻害してくれるんだそうな。
昔から膀胱炎の治療に使われてきたウワウルシも
アルブチンがハイドロキノンに転化して抗菌作用があるし、
カモミールからアズレン、ホワイトウィローからアスピリンと
民間療法の薬草も馬鹿にできないね。
南米のコカ・キナに比べて北米の薬用植物は最近まであまり聞かなかったのは
単に白人が注目しなかったためでしょうか。栽培作物か否かも関係あるのかなあ。
オーストラリアでも健康食品などで最近注目されだした野生植物は
たいていアボリジニが利用していたことから効能を知った、というものが多いようですし。
東洋といえば華陀
華佗/華陀とは
中国、魏の名医。鍼灸や薬学に詳しく、麻酔を最初に発明したとされており、「麻沸散」と呼ばれる麻酔薬を使って腹部切開手術を行なった。民衆から高い評判を得て「神医」と呼ばれた。また、正月に飲む屠蘇や「五禽戯」と呼ばれる体操による健康法の発明者でもある。
華佗の評判を知った曹操は彼を典医として召し抱え、持病の治療に当たらせた。原因不明の頭痛と眩暈を鍼治療であっという間に治した華佗だったが、当時は医師の身分が低かったため、どれだけ成果を上げても認められず、高い官位になれないことに不満だった。そこで華佗は医術書を取りに行くという口実を作って故郷に戻り、妻の病気を理由にそのまま二度と曹操の元に戻ろうとしなかった。妻の病気が作り話だったと知った曹操は怒り、華佗を投獄の末に刑死させた。曹操は華佗の医師としての才能を惜しみ、殺してしまったことを後悔したという。
日本の医師、華岡青州(1760-1835)は華佗の麻沸散にヒントを得て麻酔薬「通仙散」を作り、全身麻酔下での乳がん摘出の手術に成功した。
>>18
華陀の治療
http://hobby2.2ch.net/test/read.cgi/occult/1032338511/709-719
華陀の麻沸散の技法が失われたのは心底惜しいね。
中国でも、黄河文化圏では鍼灸療法が発達し、江南文化圏では漢方療法が発達したらしい。
>>35
黄河文化圏で発達した医学は漢方じゃないのかい?
>>36
あ、すいません。
ここで言う漢方とは「薬草を使った療法」のことです。
中国以外で鍼灸が発達した地域ってあるのかな。
かのアイスマンも腰に鍼を施した痕らしき刺青があったが。
鍼治療の起源については「刺青起源説」もあるくらいだから
かつては世界に広く存在したのかも。
>>206
アイスマンは5000年前か。
鍼灸の起源は、石器時代の石による刺脈治療といわれている。
世界各地にツボ治療の伝統があって、
それが中国に残ったというのはあり得るね。
それより、そのイレズミがどの部位にあったのか知りたいw
アイスマンの治療痕は鍼ではなく透熱灸によるものじゃなかった?
アイスマンの腰にハリ治療用のツボの目印らしき刺青があったのに萌えてしまいまつ。
発見当時、彼の胃の中から未消化のホップの実が出たそうな。
生前から回虫による腹痛に悩んでいたらしく、虫下しに飲んでいたとも推定されています。
この腹痛で下山が遅れて凍死したとも考えられています。
中国医学って実際の所、科学的に効果は認められてるの?
江戸時代の日本で蘭学が伝わると医者はみんなそっちに
走ったことを考えると、あまり効果はなさそうだが。
>>56
俺もそれ考えた事あって、全部が無意味じゃないけど、西洋医学の下に捉えなおす、みたいな
やり方が必要なってくるのでは?
あれだけ蓄積があるから、生薬、漢方薬にも風邪とかいろんな病気に効く成分
含むまっとうな薬もあるわけで、全てが無意味じゃないと思う。
ただその際に有効かどうかを測る基準が、やっぱ現代医学に基づいてなされてるわけで、
陰陽五行説とか、理気思想とか、非科学的な所を捨てなきゃいけない部分がでてきてしまうわけで、
どうしても根本で西洋医学、科学的合理主義に吸収、包括される形になってしまうんじゃないかな。
>>56
「漢方医療」だったら、江戸時代末期でも西洋医学の方が上だったかと思います。
日本で漢方が「非公認化」されたのは、「脚気」を治療できなかったからだと聞きましたが…、
間違ってるかな?
>>57
>日本で漢方が「非公認化」されたのは、「脚気」を治療できなかったからだと聞きましたが…
石黒、森、青山等々、明治医学の主流派達も脚気医療には全く
無力(どころかむしろ積極的に正しい療法を妨害)し、多数の
死者を出してますから、これはないでしょう。
>>57
脚気は栄養に起因する病気ですから西洋医学よりは東洋医学の分野だと思うのですけどね。
玄米飯を食えば脚気は治るという経験則を治療に活かせなかったのでしょうか。
白米を主食に食べる江戸で多かった病気ですから「江戸患い」と呼ばれていたわけでしょう?
そーいや、鴎外のせいで脚気治療が遅れたな。
西洋医学が漢方医学を越えたのは種痘の発見以後ですよ。
それまでは西洋医学の治療能力は漢方医学より劣ってた。
しかし、科学的な研究態度によって
西洋医学のほうが「将来性」は期待できたということです。
また、徳川時代の日本で知られていた漢方医学が
漢唐時代の古いものだったという事情もある。
なんか、混乱しているようだが、漢方は日本の医学だよ。
もちろん、起源はシナだけど、漢方は、江戸時代に日本独自に発達してきたもの。
それに対し、シナの医学は中医と言う。
漢方も中医も東洋医学だが、漢方≠中医。
『ターフェルアナトミア』の図版と解剖遺体とを見比べて、
内臓配置が『タ-フェルアナトミア』の通りで、
中国の五臓六腑説に基づいた伝統的医書とは違っている、
ということに日本の医者が驚愕するという場面が、『蘭学事始』にある。
それまでの数千年間、中国の医師はヒトの遺体を実際に見ることがなかったんだろうか?
死が現代よりもずっと身近にあり、人肉食なんて風習もあった中国で、
そういう事態が数千年間も続いたとは考えられないのだが。
>>152
儒教の伝統に基づいて、古い書物の批判などもってのほか、とか。
>>152
中国では解剖による人体器官図もちゃんと残されている。
ただあまり重視されなかっただけ。
( `ハ´) <解剖なら朝飯前の我が国ではなぜ・・・
>>383
つ陰陽五行説
中国医学では五行の気の乱れを回復するというのが医療の中心的課題となったため、
医学の中でも解剖学はあまり発達しなかったという話だったような。
三焦を実証学的に探そうとする奴とかいなかったのかな?
それとも当時の人には自明のことだったんだろうか?
チャングムの話の最後のほうで、チャングムが王に外科手術を施すかどうかで悩む場面がある。
実際、治療のためとはいえ王に刃物を当てるのは、大逆行為と見なされて大問題になる。
正祖王は、切開いて膿を出せば治ったであろう背中の腫れ物をやむなく放置したため命を落とし、
ある王子は医者を招き、自身の腕に簡単な手術をさせたが、このために医者は大逆罪に問われ、
王子は医師を救うためにあらゆる手を講じなくてはならなかった。
また、ある王が唇に出来た腫れ物で苦しんでいたとき、医者は切開を思いついたが刃物を当てれば大逆罪に問われる。
そこで道化を呼んで、王の前であらゆる滑稽で恥ずかしい真似をさせた。
流石に王もこらえきれず爆笑し、その瞬間腫れ物は裂け、無事に膿が出て治った。
そういやあ三国志でも
「頭を切開して手術します」っつって曹操に殺されるカダのくだりがあったな
華陀は曹操に「以前関羽どのを治療したことがございます」と語ったため、
仲間だと思われて殺されたんだよね?
あれだけミイラづくりに長けていたのだから、
エジプトの医療レベルは高かったのでは?
遅レスになるがイスラムの医学はエジプトの医学をも取り込んだと思う。
プトレマイオス朝の頃に死刑囚を使ってナチスや731もビックリな生体解剖やった医師がいたような…
中東ねたあんましないね。
最初の病院はバグダード(アッバース朝初期)って話の
信憑性はどんなもんでしょ。
高校の世界史資料かなんかで読んだけど
足を腫らした患者がイスラム教徒の医者のところへやってきた。
医者は熱いコテで傷口を熱し、切開して膿を取り除いた。
そこへキリスト教徒の医者がやってきて、おまえら野蛮人は
まったく何にも分かっちゃいない、こうやるんだとばかりに
患者の足を切り落とし、悪魔を追い出すのだといって
頭蓋骨に穴を開けた。患者はたちまちにして死んだ。
中世、ヨーロッパの医学の水準が非常に劣っていたことを
古代ギリシア以来の医学の伝統を受け継いでいた中東の人々が
風刺して書き残したものだという話。
そのもと資料は和訳あるけど、
全体を読むとその記事はネタの可能性もあるかも、と感じた。
逆に十字軍側の優秀さを紹介する記述もあるし。
変な侵略者を馬鹿にするために
生まれたネタの可能性も大で、
教科書に採用するには、正直、どうかと思う。
>>133
その話自体の信憑性は分からないけど、
当時のヨーロッパは、イスラム文明に比べてかなり遅れていたでしょ
当時イスラム教圏の人々が
そんな風に言ってヨーロッパ人を馬鹿にしていた、
というだけでも、西洋=文明的、イスラム圏=野蛮、
という古い迷信的イメージを打ち砕く効果があるわけで。
日の当たらないイスラム文化圏にもっと注目しよう、
っていう流れが世界史教育の中であるわけだしね。
でも、教科書に不確かな情報はよくないね。
4人妻の理由もなんだかなーと思うし。
問題はヨーロッパが遅れていたことじゃなく
中東文化圏において高水準の医療技術が保たれていた、
という話の真偽だと思われるわけですがこのスレのテーマ的にも
>当時イスラム教圏の人々がそんな風に言ってヨーロッパ人を馬鹿にしていた、
>西洋=文明的、イスラム圏=野蛮、という古い迷信的イメージを打ち砕く効果があるわけで。
しかし馬鹿にしてるからって実際問題として優れてるとは限らない。
戦後の韓国があらゆる面で日本を馬鹿にしたり、悪口言ってた資料として残ってて
それが後世に優れてた証拠とか引用されても間違いだろ。
それは韓国人の嫉妬とか劣等感の裏返しで現実には日本よりはるかに遅れてたし。
イスラム医療が一時期先進的だったのは間違いじゃないんだから
胡散臭い資料なんか使わずに客観的に示せば良いだけと思う。
アルラージー、イブンシーナー、イブンルシュド。
最高級の医者がイスラム圏に現れた。
ヨーロッパの医療水準がイスラム圏のそれに追いついたのはいつ頃だろう。
「最先端医学は常に戦場で誕生した」と応用倫理学の講義で聞いた。
戦場で瀕死の状態にある兵士を臨終前にいかにして本国に帰すか、
ということから生命維持装置が生まれたという。
ハムラビ法典には医師に関する法令と罰則が載っているらしいが内容はやはり復讐法に基ずくものであるようだ。
とは言え、バビロニアはエジプトと並ぶ医学隆盛の地で多くの医師が働いていた事だろう。
ともすれば、正当な治療をして残酷な刑罰を受けるのは割にあわず
実際にこの法令の対象となったのは、偽医者、ヤブ医者達と考えられる。
タチの悪い悪徳医者を取り締まる事は、同時に医師達の正当な医療行為を保証し、これを認めるという事である。
これは世界最古の医師法、もしくは医師法の原形と捉える事ができそうだ。
信仰が教えるところによれば、あらゆる医学的処置よりも神への信頼の方に
大きな治療力があるとされたので、医者に治して貰おうと期待して頼る者は、
すでにそれだけで神の救済を期待していないことになる。
それ故多くのイスラム神秘主義者において医学的治療の断念は特別の徳であり、
神の慈悲に絶望することは最大の罪であるとみなされた。
健康と疾病は中世にあっては人間の救済の視点から見られている。
アラビアの神秘主義者ガッザーリーによれば、病者が治療を求める理由が成り立つのは、
精神的に有意義な生活をするために、治癒行為を志向する場合のみである。
労働能力をもたらす健康だけを欲する時にはすでに精神的制限を被っているものとみなされる。
できるだけ妨げられることなく自分の逸楽の奴隷となるためだけに健康を欲し、
「悔いのない快楽」以外の何物をも欲しない種類の人々は誰の目から見てもおかしい。
「つまり病が人間の心の頑なさを打ち破る場合には救いをもたらすものであり、
健康といえども人間の不幸な旧態を強めるだけのことになるのであれば、極めて危険である」
預言者マホメットは医師を崇め、薬物を尊重して病苦の意味を認識し、
疾病の浄化する力を理解することを学び、神の業への信頼を失うことのないようにと、
一貫して信徒達に教えた。
「病人の何か欲するものがあればそれを手に入れて彼に与えるべきである」
「神が病苦を造り給うた時には、必ず同時に病苦に対する薬をも造り給うた」
したがって創造の秩序によって認可された治療薬を見出すことこそ
医師の本来の課題となる。
宗教伝承によればマホメットは患者往診や瀉血・ある種の薬を推奨するか
拒むかの問題を論じたのみならず、全ての生活状況にあって可能な限り
衛生的な生活法にも触れている。
1685年二月一日、イギリス国王チャールズ二世がおそらく腎不全で危篤状態に陥った。
この日から崩御の二月6日まで医師団が行った治療はほとんど無意味かつ拷問だった。
王はまず多少の瀉血のうえ、アンモチンとキュラソーを混ぜた催吐剤、硫黄を入れた
芍薬水を飲まされた。さらに2時間おきに浣腸、浣腸剤は葵の葉、すみれ、砂糖大根、
ウイキョウ、亜麻の種、シナモン、カルダモン、サフラン、サボテンに寄生する虫、
アロエ、これらの混合物。その間にも李のシロップ、岩塩、下剤などが投与され、
挙げ句頭髪を剃って発泡剤を塗りつける。
この後偶然に王の意識が回復したので、医師団は意思を強くした。甘草、アーモンド、大麦の煎じ薬、そして下剤。
火傷するほど熱い膏薬、虫の粉末入りを全身に塗る。両脚の裏にはタールと鳩の糞まで塗りつける。
王の回復を「確信した」医師団はブラックチェリー、砂糖、ラベンダー、真珠の粉、
有りとあらゆる発作防止のてを講じる。あげく「変死体の頭部から抽出した液体」を服用させる。
しかし結局、2月6日正午、国王は崩御した。
医師団の治療は当時としてはベストだが、現在から見れば拷問である。
>>186
十字軍の話で必ず出てくる「イスラム教徒の医者がキリスト教徒の医者の『治療行為』に呆れる」話ってのが、
誇張でもジョークでも無かったように思える逸話ですな。
欧州人は戦争ばっかりやっており医者は軍医として生計をたてるほかなかった。
戦場には遺体、けが人が沢山いて死んでも訴える人もなかったので外科手術が発達した。
初めて輸血をされた人は、フランス国王ルイ14世って聞いたことがある。
が、これは本当なのだろうか?
ローマ教皇が重体になったとき、若い二人の僧が血を捧げた、のが「輸血」の最初、と聞いたことがある。
しかしこれは血管注射ではなく、口から飲んだために意味がなく、
血を捧げた僧たちも出血多量で死んでしまった。
ルイ14世の侍医は、ろくな治療法をできず、そのせいで、
王の子、孫、ひ孫のほぼ全員が死亡
ただ一人生き残った曾孫は、乳母が宮廷から連れ出したから、助かったという
>>526
ルイ14世の侍医についてぐぐってみたらいろいろ面白い話が見つかった。
>ルイ14世の侍医であるダカンは「歯が全ての病気の感染の巣である」という奇妙な学説を主張していました。
>一本でも歯がある限り何かの病気に感染するという説です。
>ダカンはなんとルイ14世の歯をすべて抜いてしまいました。
>>18世紀初頭には、ルイ14世の侍医が持病の治療薬として毎日スプーン数杯のロマネ・コンティを処方しました。
>1667年ルイ14世の侍医デニーによって、4名の貧血患者に子羊の血液を輸血するという治療が行われています。
>当然、結果は失敗で、1名が命を落とし、デニーは殺人罪で訴追、
>フランス国内に限らずヨーロッパ中に輸血の禁止令が出されました。
ルイ14世の侍医って何でこんな変なやつばかりなのか。そりゃ死人も出るわ
乳母が曾孫を連れ出したのは正解だったね。
>>528
当時基準じゃまともな医者の部類だったのかも。
パレは床屋医者出身だけど、当時は外科なら床屋医者、
薬なら魔女(というか民間薬師)の方が信頼できた時代なわけで…。
正規の医者なんてガレノスの教科書を読みながら机上の空論を打つようなもんじゃ?
フランスの医学史見ているとあまりに血まみれで軽く鬱になれる。
効かなくても死にはしない漢方文化圏で良かったと心底思った俺。
今月発売された医学書院の「まんが医学の歴史」は、おすすめ
著者はDrコトーの監修者でしられる臨床医兼漫画家の茨木先生
今まで読んだ医学史の本では一番面白かった
医師の描く医学史は、ほとんど近代医学万歳で終わるものが多くて、つまらない。
ちゃんとした歴史家か科学史家が書いた医学史の本はないものかね。
>>534
歴史家や科学史家が書くと、
医学の内容があいまいになる。不正確になる。
難しいね。
>>534 >>539
まともな科学史や医学史は、史料に同時代の科学や医学の専門家の記述や
実践的な臨床の記録、病人や施設等の施政上の処理など事務的な記録を使うだろ。
それをもとにパラダイムや言葉の関係の変化を複層的にとらえて解釈する。
欧米では文系理系の壁が日本のようにない
こういう研究を理数的手法や科学に疎遠な人がやって生き残れない。
著者の名前で売る一般的向けのいいかげんな啓蒙書は別だろうけどね
>>534
少なくとも反近代医学みたいに仕上がるよりはマシだと思う。
そっちの方がカルトがかってるか、偏った政治ナショナリズム入ってそう。
新しい発見や視点は学術的に正確なら歓迎すべきだが、
基本的に近代医学肯定の姿勢は正しいと思う。
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